2011/02/28

奴隷は奴隷を生む。

誰が言った言葉だったか?
思い出すのに時間が掛るので、誰か?は放っておこう、俺。
言葉に対して考えるべきは誰が言ったかよりも、
何を意味しているかの方が重要だという点だ。

この言葉に対して、制度という事だけを考えるならば、
其処には時代という概念が付きまとうが、
この言葉に対して、心情という点を考えるならば、
其処には基準という概念が付きまとう。

さて、クダラネェ話でもしようか、俺。

2011年という年になってから三日ばかりが過ぎた頃。
アイテムの写真撮影に追われていた、俺。
旅をしながら気ままに撮ったり、スタイリングの撮影したり、
そんな普段のカメラの使い方と違い、
物撮りと言われる様な撮影の仕方をする際には、
照明等のセッティングに気を遣う所が多い。
そして、そんな撮影をしている時ほど、照明が壊れたりする。
この時もあらかじめ決まっている通例行事かの様に、
切れた照明等の機材の補充に電器屋に向かうはめになった、俺。

大型量販店の特に電器屋は嫌いじゃないが、独りで行くのには躊躇いがある。
理由は単純で迷子になるからなんだが、俺。
急いでいた事もあり迷わず迷子になりに電器屋に向かう。
と、大型量販店のその店の手前の交差点に鳩が落ちていた。

外傷無し、吐瀉物無し、血痕無し。
羽に乱れなく、体温低め、心肺停止の御様子。
迷わず拾っていく事にする。

ご臨終の鳩を片手に大型量販店の中で迷子になっていると、
怪訝な表情で店員がやってきて訪ねる。


店員 「お客様、そのお持ちのは人形ですか?」
俺  「チゲーよ。そこで拾ったんだ。いいでしょ?」
店員 「・・・・あの?生き物はちょっと、そのまま持ち込みされますと・・・」
俺  「チゲーよ。見事に死んでるから生き物じゃねぇよ」
店員 「・・・・・・・・あの?・・ソレもちょっと・・・」
俺  「ちょっと、何?」
店員 「ちょっと困ってしまうんですが・・・」
俺  「じゃー頑張って困ってて」
店員 「・・・・・ご遠慮願えないでしょうか?」
俺  「何で?」
店員 「・・・・・・・・」

正月で混雑した店内で、忙しいのに厄介なのが来た。
って、空気はヒシヒシと感じるが、基準がいまいち判らないので訪ねた、俺。

俺  「つまりぃ。屍骸を持ち込むなって事ですか?」
店員 「そうですね・・・他のお客様もいらっしゃいますし」
俺  「誰かに迷惑だと?」
店員 「そうですね・・・・・」
俺  「でっ、誰が迷惑だって言ってんの?」
店員 「いや・・・誰がとかではなく常識的に・・ですね・・・」
俺  「そんじゃあ、スーパーの買い物帰りの鶏肉200g
持ったオバちゃんの入店はお断りってことかい?」

店員 「それとは、ちょっと違いますよね。あの?常識的に・・・」
俺  「それは何処の基準の常識?アンタの?この店の?それとも俺の?」
店員 「・・・・・・・」

結局、袋に入れて店の外に置いとく事になって、
迷子になって店の外に出たら袋ごと鳩が無くなってて、
もう一回さっきの店員に説教するハメになったとさ。


はい。
ごめんなさい、俺。
別段、理屈だ屁理屈だをヌカして偉ぶりたいんでも、
アーでもねぇコーでもねぇと文句付けたいんでもねぇ。
その基準が理解できねぇから教えてくれってクダラネェ話。

今現在、自分の持っている基準は何処で備わったのか?
その基準は果たして万国共通万人万々歳に正しいのか?
一度くらいは考えてみた事あんのかい?


奴隷が自らを奴隷という基準に当て嵌めてみた時、
自分が奴隷だと感じるのだろうか?
それとも基準を疑うのだろうか?
なんとなく蔓延している基準に従うのは奴隷と大差ねぇって気がしない?

昨今、民衆の運動によって国に変革が起る御時世だと、
運動の起こり方に焦点を当て他人事の様に注目するが、
何を基準として何を求めて変革させようとしているのかが問題だ。
変革とはつまり、基準が大きく変わる事をも意味しているのだから。



それにしても、あの鳩はどっかに飛んでったんだろうか?
それとも、浮かばれない浮浪者の晩飯になったんだろうか?