2011/01/31

幻想を見ている。
神が存在するという幻想。
未来が明るいという幻想。
愛と平和が大切だという幻想。
でも、
本当に幻想か?

真実を知っている。
時間は戻らないという真実。
平等が存在しないという真実。
罪を犯せば罰せられるという真実。
でも、
本当に真実か?

物事には必ず概念が付きまとう。
それに気付き、いくら振り払おうとしても、
ベッタリと張り付いた靴底のチューインガムの様に付きまとう。
科学やテクノロジーが如何様に進歩しても概念が在る限りは、
争いは尽きる事が無く繰り返されていくだろう。
でも、
本当に繰り返されるのか?


まぁ・・・どうでもいいか、俺。
しかし何だよな、俺。
此処でこうして文章書くのも、えらく久しぶりな気もすんだけど、
自然体の文章を書こうとすると、
此処で書いている事が自分の口から発せられる言葉に一番近いと感じる。
文章を書いてる人ってのは読む(見る)側を想定して文章を書いている。
雑誌のコラムや、此処で書いている文章にしても、その意識はある、俺。
ただし、意識の持ち方は違う。
公に某かの情報を発信・紹介する為に個人で書き掲載する文章と、
主催者側として個人的な主観のみで戯言を書き綴るのは大きく違う。
また、即座に情報を伝達する為の文章の書き方も異なる。
故に、コラム等の書く為のテーマを決めて書いている文章と、
SPEED SPECTERでやるSS NEWSと此処での文章にも、
同じ俺が書いていても違いが生じる。
戯言って点で言えば、此処での文章が自然体に一番近い。
何故なら、誰が読む必要も読ませなきゃならない必要もねぇんだからよ。
読むのも書くのも勝手にしやがれってのが一番好きだ、俺。

昨今は、誰にしたって自然体で文章を書く事が少ない時代だ。
どーゆー事かと言うと、会社での業務報告や取引先との伝達ってだけでなく、
ブログだのツウィッターだのってので、
自然体の自分、もしくは本心を隠した自分で文章を書く。
自己の意識よりも、他(読む側・見る側)を強く意識するのが原因だろうが、
果たして、他を意識した自分に順応した自分は本来の自分と一致するのかい?

どーゆー事かと言うとだね。
例えば、暫く文章書かないで放置してた後に、文章掲載する時さ
「ご無沙汰してしまって、すいません」
とか、書く人いるでしょ?
あれ。
戯言の書き綴りならば必要無い。
その種の他に対しての意識が存在しないのだから。

ところが、他を意識すると、聞かれても無いのに無駄な言い訳や、
誰に対しての謝罪や言い訳なのか知らんけど、謝る。
これが商売やってる人や情報発信を生業としている人ならば謝罪も当然。
でも、そうじゃない人の謝罪って何なのだろう?
文章を書いていない事に対するクレームの連絡が大量に入って、
一件一件クレーム処理すんのがメンドクセーから、
まとめて謝罪会見しておきましょうってな話なのか?
書きたいヤツが書いて、見たいヤツが見てんだけなのになんで謝罪の必要があんだ?

だいたいにして「すいません」じゃなくて「すみません」だろうが!!

何を吸わないってんだ?
煙草を吸わないだの、
      女の乳を吸わないだのはアンタの勝手だ、好きにしろ!!

雑誌の編集長とか企業の社長とかが書いてるブログで、
散々めったら姿勢が、礼儀が、態度がと暑苦しい事を語ってるブログだので、
謝罪に「すいません」とか書かれてるのを見て、
皆が納得するとでも思ってんのか?
はん!?
あはん!?
だったら、もしもアンタの名前が森脇(モリワキ)だとして、
謝罪される時に
「すみませんでした。モミワキさん」

って言われて、どう感じるかって事をキーボードを叩く其の指先を
持ち上げる瞬間の消費税にも満たない3%でも想像した事があるのか?
無いんだろう?
無いから平気で間違った謝罪を公的に垂れ流し、平々凡々と過ごせるんだろう?
それともアレかな?
「書いた事は既に過去の事なので覚えておりません」
とでも言って見せてくれるのかな?
お願いだから是が非とも対面時に、こうして文句を言ったら。
切り返しの謝罪で
「すいませんでした」
って言ってみせてくれないか!!


そう、これが概念ってヤツだ、俺。

言葉は言葉でしかないので、
謝罪の姿勢や意思が表明されていれば問題無いのだが、
「言葉を正しく使わないのは悪である」
という概念が話を本筋から逸らしてしまう。

元来派生した言葉や文法は時代の流れとともに、
発展・衰退・変化を繰り返しているので、
で、なければならないという決まりは日ごとに崩れていく。
では、言葉ではなく何が問題かと言えば、問題は意識だ。

コミュニケーションツールが発展した際に生じる意識の問題は、大きい。
簡単に自己の状況を他に認知させ、対応を求める事が可能になっている為、
意識を強く保つ必要性が無くなっていく。

例えば、ツウィッターで、自分が何処其処にいるという情報を開示する。
誰かが其れに対して反応を示す。
別に悪さは何も無い。ツールの活用バンバン・ビガロだ。

問題は其処で得られるはずの孤独や時間を誤摩化してしまう事にある。

どう誤摩化されるかというと、
そんな状況の自分を見て貰う(知って貰う)事は、
個で完結する能力が薄れていき、他に依存する事になる。
さて、そこで何の問題が?
と、なった時に問題視するべきなのはツールに依存するという現象だ。

ツールによって、ある一定のコミュニティを形成するというのは、
ある種、本能的な意識ではあるのだろうが、
同時にコミュニティを維持する為にツールが必要不可欠となる。
他を通して自己を見るという行為が必要な場面は多々存在するが、
他と自己との間にツールが介在すると真実は歪む。
公に使用する言葉という幻想によって。



まぁ、うるせーよ。

って話だわな。
だいたい、ツウィッターとか一般的なブログとかやった事ねぇもん、俺。
情報発信用ツールとしか考えて対応出来てないヤツに、
知った様な口で偉そうに分析されたかぁねえよな。

知ってるよそんぐらい、俺。
新聞とか読んでると出てくる、芸能人の謝罪会見とかで、
「世間をお騒がせして申し訳ございません」
とか言いますが、騒いでんのは騒ぎたいヤツだし、
むしろ騒がせたいのは「報道の自由」とかヌカして、
金貰って下衆な勘繰りしてる連中で、
平々凡々な毎日で、誰かが誰かをぶん殴って騒ぎでも起こさなきゃ、
平凡パンチも売れやしねぇ。っていう、
きっとそんな事なんて、謝罪会見とかやってる側も見てる側も知ってる。
ってぐらいには知ってるよ、俺。

知っていてツールに対しての応じ方を選ぶは、対応者。
知ってたつもりでツールに依存してしまうは、順応者。

世に転がってるツールをどうやって使おうが、使うヤツの勝手。
ただ、幻想と真実の概念が無いまま話しかけんのはやめてくれ。



2011/02/28 |